自分至上主義
自分を操れるのって、最終的に自分じゃない?
って思いませんか?
誰かに、何かしらに操られているという言い訳は、しているうちはなんだか、子供というか
そう、価値観として表現するのであれば、そういった観点で、自分を操っているのは自分なのだと認知して、行動をしている人間のことを大人というのではないかしら
私の中で、大人、子供と、区別したならば、子供と判断した人間は、成長するまで見守る、その判断基準を伝える、見捨てるの3点であり
その所謂大人とか子供で言えば、子供じみている人間の方が多いように感じている
もちろん私のことは棚に上げるが、私の価値観の中で、大人でありたいと思いながら生きている。
はて、「自分至上主義」と銘打った理由は、その逆「他人至上主義」という生き方があるかも知れないが、他人を基準に生きるということは、予測不能、制御不能、不安定なことに時間を費やすというのか、果たしてその生き方は、自分を幸せにしてあげられるの?
その生き方大丈夫?
という投げかけである
私は、今までのブログでも何度も説いてしたが、「自分で自分を幸せにしたげる」というのことと
「自分を幸せにしたげれるのは自分だけ」という点を、無限に書き綴り、最終的には、誰かの幸せに貢献してやろうという、とっても傲慢な押付けがましい幸福論説法者になるぜ
というエゴイズムからきているのである
哲学のお勉強は専門的には行ってはいないけれども、突き詰めれば、この利己主義に繋がると思っている
「自分の為が誰かの為になっている」
「自分の為が自分の為になっている」
大きくこのふたつに分類した時に
「結果」はどうだろう
「誰かの為」という場面は、必ず他人が存在しているけれども
例えば、「ゴミを捨てる」ということに絞って考えると
「自分がゴミが散らかっていると気になるから、汚いから、綺麗な方が気持ちがいいから」というきっかけで行動を起こしたとしても、他人から見ると、なぜか、「優しい」「気が利く」「綺麗好き」のように思われたり
その逆で、「めんどくさいから、誰かが捨てるまで、待とう」と思って行動すると、なぜか、「めんどくさがり」「だらしがない」「不潔」と他人に思われたり
「他人」が絡むと、結果が変わるけれども、全部「自分」だけで、考えたらば、結果を操れる、自分を操れる、自分の世界を操れる、コントロール出来ることによって、「安心」「安定」を自ら作り出せるんではないだろうか
「自分の為」を「他人の為」にすり替えている人間が多くないだろうか?
私は綺麗事だと、さっぱり、きっぱり、思っている
「誰々さんの為だよ!」
そんなセリフはよく聞いた事があると思うが、その言葉の裏には必ず「自分の為」が潜んでいる
もちろん、本意もあると信じているが、結果としては、「自分の為」になっているのだから、「考え方」「捉え方」「気の持ちよう」で、かなり答えのだし方が変わるけれども、どうだろう
せっかくだから、「自分の為」にということにしてみてはいかがだろうか
それは、「他人」から見たらば
「自分勝手」
「わがまま」
「人のことを考えていない」
「サイコパス」
「キチガイ」
「あたおか」
色々と、言われたり、思われたりするだろうが、それって、「他人」が決めたことであって
「自分」が決めたことじゃなくない?
「自分」がゴミを捨てたくて、捨てただけの話であって
「自分」がめんどくさくて、ゴミを捨てなかっただけの話であって
そこに「他人」を混ぜる必要ある?????
いつまで、「他人」に「結果」を委ねているのだろうか
それが、「子供」なのではないだろうか
子供は、親がいないと、親(お金)がいないと、親(認めてくれる人)がいないも、親(許してくれる人)がいないと、生きていけない
親を他人というのは厭な人間もいるだろうが、自分以外を他人という表現をした時に、「他人」に「結果」を委ねている生き方こそが、「子供」なのではないだろうか
今、あなたは、お金を稼いでいるだろうか、それは、誰の為?
認めてくれる人は、誰?
許してくれる人は、誰?
子供が悪いだとか、そういう事を伝えようとしている訳ではないけれども、いい表現が子供という表現で、幼い、未熟、そんな言い方でも言えるけれども、それを集約したのが、「子供」という表現だ
そう、子供は、親がいないと幸せになれないとでも言っておこうか
親だけで言うのであれば、毒親と言われるのは、親に育てられている時だけの話で
親から離れた時点て、毒親という存在自体は居なくなる訳だから
親から離れた時点で、毒親だなんだとほざく人間は、それこそ、「子供」である
自分のことくらい自分でやれ
他人に結果を委ねる場面は、社会上はかなりたくさんあるけれども、その結果は、「社会上の結果」「他人が決めた結果」であって、「自分が決めた結果」ではない、てところがキモ。
「自分がコントロールする世界」
なのか
「他人にコントロールされる世界」
なのか
「他人が決めた結果」をあたかも「自分が決めた結果」のように勘違いして生き続ければ、いつまでも、「子供」のままなのではないだろうか
その「子供」からの脱却が、「大人」というよりも、「自己」をやっと「肯定」するという段階にいくのではないだろうか
子供か大人ではなく
子供か子供じゃないか
というところじゃないかしら
久しぶりに書いたけれども、アウトプット、自己表現、てのは、気持ちが良い
それこそ、誰かの為ではなく、自分の為だけに書いたものだから、誰かにどう思われるとかどうでもいいから、とっても気持ちがいい
そう、誰かにどう思われるとか考えると疲れない????
自分がこうしたいから、こうした
だから、気持ちがいい
それだけでいいじゃん
それが、「自分至上主義」
はい、おしまい。
最後まで読んでくれてありがとね。