因果応報について
因果応報について
そうそう、悪いことに使われがちの言葉なのだけれども、いいことも悪いことも返ってくるのですよね。
因果応報って言葉に出会ったのは、一八歳頃だっただろうか、お仕事で上司に教わったのを幽かに覚えています。
すこし脱線しますが、ものを書くとき、漢字や、表現の方法を調べながら書くので、書きながら、お勉強できでて楽しいです!!!
三日坊主になると思っていたのですが、結構楽しいので、続けていこうと思っています。
よろしくお願い致します。
さて、因果応報についてですが、何故、因果応報について書こうと思ったかと言いますと、お仕事のお話なのですが、とても調子がいいのでそれは因果応報だなあて思ったからです!!!!
因果応報だと感じた瞬間から、ずっと今日はこのことを書こうと決めたのです。
今思えば、全てが返ってきている。報われていると感じるのです。
なにもかも、行動に伴って、感情に伴って、返ってきて、ちゃんと良いことが返ってきた時には、世界に感謝して、神様がいるのだと、ちゃんと見てくれているのだと思い
悪いこともが返ってきたらば、どうして私はこんなに不幸なのだ、世界は不公平じゃないか、神様がいたらば、ぶん殴ってやる!!!
だなんて思っていました。
いまでも思うときはありますが、自分の行動が、感情が作用して、物事が進み始めていることに気づいた頃、なんだか、世界がわかったように思えて、気が楽になりました。
こうしたらば、これが返ってくる
これをしなかったらば、これが返ってくる
そのパターンを分析したり、そのパターンを作り出したりして、わかったつもりで、知ったかぶりで生きてきました。
良いことが返ってくるパターンを分析し続けてわかったのは、善いとされることを「真剣」に何事も行うことにあります。
所謂、モラルだとか、一般常識、思いやり、偽善でもいいので、善意
至極当然のことを「真剣」に
けれでも、その「偽善でもいいので、善意」というところが、すんごく面白いのです。
興味深くて、研究しがいがあるのです!!!
私はどうでもいい(あまり興味がない)人にも善いことを行うことを「真剣」に行ってみて結果を考察してみました。
結果はもちろん、ちゃんと返ってきます。
なんだか、この原理に、あぐらをかくというのか、所謂、驕りを感じました。
でもね、中毒みたいになって、誰にでも優しい人間になって、自由に生きていないように感じました。
ね、因果応報だね
でもね、優しいってことは、褒めるとか、なんでもしてあげることではないと思っていて、悪いと感じたことを指摘してあげることとか、その人がしなければいけないことに気づかせてあげて、しっかりその人が因果応報を感じれるところまで連れて行ってあげることでもあると思っているからね、安易な「優しさ」てのは、善いこととは限らないと思っています。
悪いこともが返ってくるパターンは、もうお気づきの方はいらっしゃるとおもいますが、その逆ですよね。
所謂、非倫理的、非常識、悪意のある行為。
いやね、思い知らされておりますよ、はい
すいません。
バランスですよね。善い人間のフリをしている訳ですから、化けの皮が剥がれちゃう時だってあるし、善いことばかり意識的に行っていると疲れてしまうし、すこしくらいやんちゃしたいし、どのレベルの悪いことがどの程度で返ってくるのかってのもね、研究対象ですよ
ね
哲学ですよ
そうやって言い訳を、いい言い訳を作って、悪いことをしたりしちゃいますよ。
いや、さすがに書きすぎて疲れました。
報われないことだってたくさん経験しましたよ。
努力しても実らないことだってたくさんありました。
けれども、腐ってしまっては、善いことをする体力さえ、腐りに持っていかれてしまって。
「鎖」になっちまって、あ、なんかうまいこと言っちゃった。
へへへ
もしもね、近くに報われないと嘆いているひとがいたらば、報われるまでお付き合いしてあげれば、お互いに報われるのではないかしら
ね
たまにでいいかもしれないけれどもね、もしもその報われないと嘆いているひとが、大切な存在だったらば、たくさん「優しく」してあげようって決めてます。
じゃ
また